【恭加の「THEATRE for ALL 」感想文】第78回「合理的配慮はコミュニケーション:障害児もきょうだいも、当たり前に空気を共にしたい。重度心身障害児の母が研修会に参加して考えたこと 前編」
こんにちは。恭加 (きょうか) です。
恭加がご紹介する、バリアフリー オンライン劇場THEATRE for ALLの作品。
第78回は「合理的配慮はコミュニケーション:障害児もきょうだいも、当たり前に空気を共にしたい。重度心身障害児の母が研修会に参加して考えたこと 前編 」合理的配慮はコミュニケーション:障害児もきょうだいも、当たり前に空気を共にしたい。重度心身障害児の母が研修会に参加して考えたこと 前編 」です。
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今回は、THEATRE for ALL編集部員で、いわゆる「重度心身障害児」の子供の母親であるザコウジさんが研修会を通して感じたことや自分の経験、思考について綴ったコラムの感想を書く。
ザコウジさんのお子さんは生まれつき脳性麻痺で全盲である。
このコラムは研修会で共有された「合理的配慮」を中心に綴られている。
ザコウジさんが
「大多数の人と違う形で世界を捉え、生きる人たちが、普通に混ざり合う社会にしたい。困難を軽やかに乗り越え、身をかわし、心地よく生きていきたい。」
ということを書いていたのが特に印象的だった。
ザコウジさんは混ざり合う世界になるために大切な考え方の一つが「合理的配慮」という考え方だと綴っていた。
「合理的配慮の提供」とは、「障害のある人から『社会の中にあるバリア(障壁)を取り除くために何らかの対応が必要』との意思が伝えられたときに、行政機関等や事業者が、負担が重すぎない範囲で必要かつ合理的な対応を行うこと」である。
この記事には合理的な配慮の考え方として、
「合理的配慮は、障害が個人の心身機能によるものではなく、大多数の障害がない人を前提に作られた社会の仕組みに原因があるという『障害の社会モデル』の考え方に則ったものであること。そしてそれは、必ずしも障害のある人だけの話ではなく、個人差や老い、不慮の事故などにより誰もが直面しうることであるということ。」
と書かれている。
また、ザコウジさんは、
「個人的にぜひ知ってほしいと思うのが、障害のある当事者も悩んでいるということ。こんなことで声をかけたら迷惑なんじゃないかとか、本当はもっとこうしてほしいけど、伝えることで嫌な気持ちにさせてしまうんじゃないかと考えると、なかなか自分が感じている困難を声に出すことが難しいこともある。
まずは、困っている人が、困っていると声を出すことに、寛容な社会になってほしいと願います。」
と綴っていた。
私が 小学校の時、障害を持つ子供たちが集まったクラス「たけのこ学級」というものがあった。障害者と健常者を同じクラスにすると勉強のスピードとか大変な事もあるかもしれないが、同じクラスにせず分けてしまうから小さい頃から障害者と健常者には壁があり、障害者と健常者は違うんだという認識が出来てしまう。当時は特に気にしたり考えたりする事は無く過ごしていたが、このコラムを読んでみて、分けてしまうからこそ障害者について知る機会も減ってしまうと感じた。
誤解を恐れずに書くと、健常者同士でも内的にも外的にもすれ違いがあって、良かれと差し出した手を叩かれるような状況になる事が多々ある。
ましてや相手がコミュニケーションを取るのに何らかの知識を必要とされるとなるとまずはそう言った知識を共有できる機会をどこかで作る必要性を感じた。
例えばそれが小学校なのか中学校なのか、地域という枠組みなのかは今すぐには答えが出せないし、もしかしたら私の知らないところで既にそういう試みや活動が行われているのかもしれないけれどザコウジさんのコラムを読ませてもらって私の中に最初に浮かんだ間口はそこだった。
道端や交通機関で車椅子の人や松葉杖の人または白い杖をついている人を見かけて何か出来るかとはないかと考える事もあるけど、「正しい接し方」を私は知っているかと自問自答すると決して熟知はしていない。
「どちら側から声をかける」
「前からなのか後ろからなのか」
車椅子のハンドルへの接し方もわからないから声をかけるのも怖い。
そんな思いを持つ人も多いのではないだろうか。
障害者と健常者が小さい頃から分けられることなく共存していたら、相互理解が深まり、偏見や誤解が解消されたのかもしれない。
障害者と健常者が同じ空間を共に生きるための機会づくりがもっと必要だと思った。
その機会を通して障害に対する正式な知識や理解を深め、障害者が必要とする配慮や支援をコミュニケーションを通じて知るという事が大切なんだと感じた。