【くらげアドバイザーコラム】1 障害による「仕事の困難さ」を体験して考えたこと

2021年11月29日

スーツ姿のくらげさんが講演をしている写真です。

はじめまして。サニーバンクアドバイザーのくらげと申します。このたび、サニーバンクでコラムを連載させていただくことになりました。よろしくお願いいたします。


まずは第一回ということで、私の障害を紹介させていただきたいと思います。私の持っている障害・病気は「聴覚障害・発達障害(ADHD)・躁うつ病」です。


聴覚障害については、母方の祖父・母・弟・私と難聴がある遺伝的なもので、いわゆる先天性のものになります。また、進行性難聴というもので、子どもの頃はなんとか言葉を覚える程度には聞こえていたのですが、12歳前後でほとんど聞こえなくなり、中学2年のときに地元のろう学校に転校しました。それ以来、ほぼ10年にわたって筑波大学附属聾学校(現在の筑波大学附属聴覚特別支援学校)や視聴覚障害者向けの短期大学である筑波技術短期大学(筑波技術大学の前身)といった聴覚障害の世界で過ごしていました。


その間に手話を使えるようになりましたが、普段は補聴器と人工内耳を使ってコミュニケーションを取っています。人工内耳とは、耳の中にある内耳という部分に電極を入れて(この装置をインプラントと言います)、大きな補聴器のような外部装置が聞き取った音をインプラントに転送し、電極が内耳を直接刺激することで音を聞くことができるという技術です。23歳のときに、先に人工内耳の手術をしていた母の勧めで手術をしました。最初は人の言葉自体が聞き取れませんでしたが、手術から15年近く経つ今では電話やオンラインミーティングもなんとかできる程度に聞こえるようになっています。


ADHDと躁うつ病については、短期大学を卒業したあとに障害者雇用で就職したのですが、仕事を進める難しさにうつ状態に陥り、3年目にメンタルクリニックを受診したら「躁うつ病」と診断されました。職場は一生懸命聴覚障害に対するサポートはしてくれたのですが、今から思えばADHDの症状が強く出ていて、締切が守れない、細かい誤字脱字や数字の読み間違いが多発する、じっと座って仕事ができないなどの問題のほうが仕事をする上で困難を生じさせていました。精神的にも体調的にもまともに動けなくなり、1年間休職したあとに退職することになりました。


退職後は障害者就労支援施設でリハビリを続けながらやはり障害者雇用で再就職しましたが、やはりここでもいろいろなつまずきがあり大変でした。しかし、この頃にクリニックから「ADHDの薬を服用しないか」と勧められ、簡易チェックを行ったところ、チェックリストの殆どに該当するということで服薬をはじめました。薬に慣れてくるとだいぶ落ち着きが出てきて仕事でのトラブルも少し落ち着きはじめ、なんとか5年間務めることができました。その間、執筆活動をしたり、聴覚障害者や発達障害者の当事者イベントを主催するようになり、その経緯があってサニーバンクを運営するメジャメンツに転職し、その後、家庭の都合で社員ではなくアドバイザーという立場で関わることになりました。


私のこれまでの人生を振り返ると、なかなかハードモードというか、仕事への不適合が続いて一時期はもう死のうかとも思うほどでしたが、様々な幸運や薬、周囲の人たちの助けがあってなんとか今も生きている次第です。


「障害者が仕事をする」というのは本当に大変です。しかし、その大変さは人それぞれで、「これをやれば必ず成功する」というセオリーはなく、更に言えば障害者自身ですら「自分に何ができて何ができないのか」ということをなかなか説明するのが難しく、なおかつその理解があっているかどうかも客観的に判断することは難しいと自分の経験から感じています。


サニーバンクにはさまざまな障害がある人が登録していますが、聴覚障害・ADHDのある人間として、「こうすれば仕事がしやすいのではないか」ということを伝えられるように頑張っていきたいと考えています。


この先のコラムでは「障害者はなぜ仕事で困るのか」ということを考えていければと思うので、どうぞよろしくお願いいたします。



事務局より:服薬については、ご自身の主治医とご相談ください。


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